ちょんがり節考察
応仁の乱後、ちょんがれ武左衛門たちが現れ、廃墟の中から富と自由を求め、大黒舞などの唄が作られたようである。ちょんがれ、ちょぼくれが唄物語になったのは明和・安永・天明期からである
歌舞伎の義太夫のチョボ(地唄)から「ちょんがれ節」(ちょぼくれ節)が生まれ「ちょんがり」になったと言われている。こうして能登・加賀一帯に流行って行き、お隣の富山県では「ちょんがれ節」というのもある。加賀一帯の盆踊り唄のじょんがらに匹敵するようである。
ちょんがりは、江戸時代の中期に盛んになり、「ちょんがれ」、あるいは「ちょぼくれ」といって念仏聖(ひじり)くずれの願人坊主門付けのもらい芸人(僧形)たちが鉦や太鼓、ささら、ほら貝、その他あり合わせの樽や皿を巧みに伴奏に使った。
唄は、世相を風刺したり、土地の名を巧みに歌い込んだり、数え唄を作ったり、軽妙に歌い並べて当意即妙にこなしながら人々を喜ばした。
奥能登には、平安時代、流された平家の子孫「時国」家に、その昔、村人たちが集まって、民俗学的にも貴重な庭踊りを唄い踊ったのが「ちょんがり」だといわれ、奥能登一帯に知られているようだ。大方、願人坊主たちが諸国に持ち歩いた「ちょんがれ」の流れではなかろうか。
有名なキリコ祭りやお盆には、夜を徹して唄い踊り、若者は毎晩部落から部落へと会場を渡り歩いたという。若者は機知に富み、当意即妙もあり、自由に歌う素朴さが今に伝わっている。