富積(とみず)祝い唄(金沢市)                  採譜:松嶋庄次

 

1 ハアー伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ(ヨイヤヨイヤ)

  尾張名古屋はソーレエ城で持つ

(ヨーイヨーイヨイヤナーアリャンコリャリャンナンデモセー)

  (以下はやしことば略)

2 ハアーめでためだたの若松様よ 枝も栄えて葉も茂る

3 ハアーお前百までわしゃ九十九まで ともに白髪のはえるまで

   現金沢港のそばに戸水町がある。ここは平成十一年に完成した「戸水船ひろば公園」に真新しい石碑があり、その石碑に次の文が刻み込まれている。

「私たちの戸水町に、人々が生活するようになったのは、今から二千年あまりの前の弥生時代のことです。このなかから富める者が現れ、周辺をも支配していったのです。そのことを、既に墳丘の盛土がなくなった三世紀の古墳がしめしています。

 戸水町は、大野川左岸にあることから、平安時代には本格的な湊として整備され、大きな建物が群をなしていました。戸水という地名が登場するのは鎌倉時代のことです。富積保と呼ばれていました。初めは皇室の荘園でしたが、やがて京都の臨済宗寺院万寿寺に寄進されました。一部には白山宮の神領もあったのです。人々が村の自治を行うようになった十五世紀後半には、本願寺連如がこの地をお訪伝えられています。江戸時代には戸水村と表記され、豊かないとなみは、現在につながる景観をつくりあげていったのです。近代の大事業である耕地整理が大正年間に完了、よりよい米つくりの環境が整ったのです。昭和四十年から始まった金沢港の泊地造成事業に十七万二千坪の用地を提供、同四十五年十一月に開港となりました。ついで平成九年三月に金沢港船の五十メートル道路が開通・新たな時代の幕開けとなりました。

 戸水神社の秋祭りには、神輿の渡御(おまわり)のとき唄われる木遣り唄がある。この唄は、渡御が朝から深夜までにわたるため、神輿担ぎ衆が疲れてくると陰旋律の木遣り唄に対して音頭とりが陽旋律の伊勢音頭系の「アイ唄」をおめでたい歌詞で唄って、元気付けたのである。

 石碑にあるように、近年この地区は、幹線道路の開通、農地の宅地化や県庁移転等で一変し、唄や伝統行事の存続が危惧されるため、この唄に三味線伴奏をつけ、唄い易い祝い唄に編曲した。戸水町には、蓮如上人に因んだ富積寺(ふしゃくじ)があり、これは戸水の地名から名付けられたと言われており、富を積むめでたい「富積(とみず)祝い唄」とした。