天保流れ節(金沢市駅西地区)作詞:比良弥之助 曲:南部幸七 編曲・三味線譜:松嶋庄次
1 サーテー 時はあたかも天保時代 わしが在所の義民の話(ハーホシテー)(以下はやしことば略))
2 サーテー 続く飢饉 飢えと病にうち疲れ果て
3 サーテー 時の代官年貢の米を 出せよ納めの無理難題を
4 サーテー 時に村役 村救わんと 再三再四減免願えり
5 サーテー 兎にも角にも 聞き入れられず 農は納とて納めよと
6 サーテー 家財田畑 没収されて 果ては越中五箇山流し
7 サーテー 時は流れて海舟様は 天保義民と石碑を刻み
8 サーテー 特に尊い義民の元へ 届け太鼓のバチ音高く
9 サーテー 天に響けよ魂の元へ 地に鳴り渡れいつまでも
10 サーテー 今日の石碑に両手を合わせ 永遠のに伝えん天保流れ節
◆時は天保の時代、米の不作、凶作ばかり続いた。百姓の中に餓死する者も出たにもかかわらず、加賀藩は、通常の年貢を減らすどころか、取り立てを強化するだけであった。農民は次第に悲惨な状態に置かれ始めた。特に長田村や弓取村は比較的コメが獲れ、城下から近く監視の目が届きやすかったこともあって、取り立てを厳しかったという。さらに追い打ちをかけたのが、天保9年(1838)イナゴが異常発生し、大半の田畑は全滅に瀕し、百姓たちは年貢米を納める状態ではなかった。こうした大凶作では各家々では、一粒のコメもなかったという。
そこで南新保村(現在の南新保町)、下安江村(現在の北安江町)、西念新保村(現在の西念)の村役15人は、近隣を含めた28村を代表して、加賀藩に対し年貢米の減免を願い出た。藩はこの願はおろか、減祖運動を許せないと、この村役たちが捕えられた。村役たちはあらゆる脅迫と拷問に屈せず、凶作の実情を訴え続けた。が挙句、投獄し、さらに富山の山奥の五箇山へ流刑の処分となった。しかもその一族の田畑や家財の没収を強行した。
村役とその家族の流刑生活は過酷を極め、獄中に村役5名が亡くなったのである。さらに4名とその家族38名は、五箇山に流刑となった。投獄から流刑と9年の間、5名とその家族14名が過酷な生活に耐えきれず亡くなった。帰って来れた村役たちは、帰っても家も田も与えられず、失意のうちに亡くなっていった
◆毎年7月、第3土曜日の夕方に金沢駅西近郊の5校下(地域)による「駅西夏まつり」(平成28年夏現在第30回)が開催されている。まつりは、長田校下の「長田権作音頭」、鞍月校下の「南無とせ節」、諸江校下の「住吉おどり」、西校下の「加賀むぎや節」、戸板校下の「戸板野じょんから」、さらに駅西に共通する「天保流れ節」の踊り曲が登場する。特設舞台では、参加する各校下が順番で音頭取りするが、参加の他校下住民もすべて踊りをマスターしていて、5校下参加住民が総踊りする地元色の濃い盆踊り大会である。