南無とせ節(金沢市鞍月地区)
1 盆の十五六日ゃおしょらい しょうらい(エーナントセーナントセー)
キリコ灯してヤレコリャ 墓参り(ナントセー ヨイヤマカセ)
(以下はやしことば・カナガナ部分略)
2 どんと叩いた 太鼓の音に あの世この世の 戸が開く
3 唄は袂(たもと)に まだまだあれど 調子つかなきゃ 声も出ぬ
4 盆の踊りは楽しいけれど 想い涙の墓参り
5 盆は嬉しや別れた人が 晴れてこの世に 会いに来る
6 カラス鳴いても 気にかけするな からすゃその日のもよ(天気模様の意)で鳴く
7 踊り踊るなら 南無とせ踊り 老いも若きも皆踊れ
8 踊り念仏気も軽がると 明日の家業が苦にならぬ
9 月は満月夜はよいけれど 踊り踊らな真の闇
11 娘島田は極楽まげよ 島田まげから御光がさす
12 船の船頭とつばくろ鳥は いつも春来て秋戻る
13 若い衆頼むぞあれこれ頼む 二度と頼まぬ今一度
14 ゆきつ戻りつ 暮らしを立てて 弥陀の呼び声 聞きましょう
15 盆は嬉しや 別れた人が 晴れてこの世に 会いに来る
◆宝徳元年、今から550余年前、蓮如上人が35歳の頃、親鸞聖人の旧跡を尋ねて北陸路を回られた。その折、無量寺村から三ツ屋村へと行かれる途中、戸水村(旧名・現金沢市戸水町)の橋を渡られながら念仏ばかり唱えられておられるのを不思議に思ったある農民がその意味を尋ねた。上人は、「弥陀の本願」を一人でも多くの人にわかってもらいたいと「南無阿弥陀仏」の心をおときになった。
それを聞いた農民たちは大いに喜び、信じ、南無とせ四字(阿弥陀仏)まかせと、両手を打って共に踊るのがこの南無とせ節の始まりという。それ以降、お盆には、必ず「南無とせよいやまかせ」と歌い踊られてきたという。その渡られた橋は、「あんだぶ橋」(阿弥陀仏橋)と呼ばれ、金沢港のできるまで残っていた。
◆文明年間、蓮如上人が北陸へ下向なされたとき、戸水村(現金沢市戸水)をお通りになられ、龍沼(現金沢港の所にあった沼)の辺りの毘沙門(びしゃもん)堂に足をお留めになり、堂の柱に御名号をお掛けになり、弥陀の本願のいわれを御化導なされて、「この御名号を本尊として、今後いよいよ仏法聴聞に励むように」と、村人たちに下されたところ、一同はうれし涙にむせび、これをおしいただいた。村人たちは、その後、毘沙門堂に老若男女があい集い上人のご教化を語りながら、これを喜び、報恩の思いにより、農耕に励むようになったという。そして、後には、蓮如上人のご恩を偲んで、毎年お盆の十五日・十六日には、「南無とせよいやまかせ」と踊り継がれるようになったという。
◆戸水町の古老に聞いた話にこんなのがあった。「昔ゃ 八角になったハチケンという高さ6尺ほどな灯り(あかり)を立てて、肝煎(きもい)りの庭で、馬だらいに水を張ってェ、その周りを皆で歌うたし、踊った。盆のときだけじゃのうて、秋祭りの神輿(みこし)の出たときも、おんなじようにしたがや。」それにしても馬だらいに水を張り、その周りを回った。と言うのは、何か特別の意味があったものなのか。「馬だらいに水を張ったと言うのは、それを『地獄の釜」』に見立てるためのもんやったがや。だから、盆踊りというのは、『地獄の釜』からお釈迦さんに助けてもろた。その喜びを表したもんやという『目蓮尊者の地獄巡り』の話通りのことを、わしらはやってきたわけや」
◆毎年7月、第3日曜日の夕方に金沢駅西近郊の5校下(地域)による「駅西夏まつり」(平成28年夏現在第30回)が開催されている。まつりは、長田校下の「長田権作音頭」、鞍月校下の「南無とせ節」、諸江校下の「住吉おどり」、西校下の「加賀むぎや節」、戸板校下の「戸板野じょんから」、さらに駅西に共通する「天保流れ節」の踊り曲が登場し、特設舞台では、参加する各校下が順番で音頭取りするが、参加の他校下住民もすべて踊りをマスターしていて、5校下参加住民が総踊りする地元色の濃い盆踊り大会である。