「じょんから」の考察 小林輝冶・加賀山昭
◆石川県の南は加賀市から、北は宝達志水町あたりまで分布する「じょんから・じょんがら」という盆踊り唄がある。地域によっては「じょんから」と言ったり、「じょんがら」とも言ったりする。この類では金沢で最も古いと言われる東長江町の「じょんから節」(昭和34年金沢市無形民族文化財指定)に従い、前者を公の名前としておきたい。
由来についてもさまざまだが、いずれも仏教との関連で説かれるのが特徴である。先の東長江町では「常和楽」(念仏によって、常時、平穏安楽を得る)から来たとする。あるいは「自安和楽」から来たとする。また、「上様(じょうさま)から」(無量寺町)から来たという説にもまた聞くべきものがある。「上様」つまり蓮如上人様からお教えいただいたお唄なのやと、そう信じ、今も唄い続けているのである。これに従えば、蓮如上人・一向一揆、その線上に「ジョンカラ」を置いて考えれば、その起源はやはり室町後期か、ということになろう。ところが、「日本民謡辞典」(昭和47年/東京堂)で「津軽じょんがら節」を説明して「新保広大寺くずし」(「新保広大寺」)を口説き化したもので、普通「越後口説」と呼ばれているのが津軽化したものだとしている。そうすると、有名な越中五箇山の「古大神」(「広大寺」の音がなまり、後、それに当て字されたという盆踊り唄)が、越後のごぜ唄「新保広大寺」の系統を引くことは、早くから知られており、その影響が広く関西にまで及んでいることを考えると、加賀の「ジョンカラ」とも何らかの関係があったとして、さほど不自然なことだとは思われない。
「津軽じょんから節」に影響を与えたとされる「新保広大寺くずし」は、江戸のはやり唄にまでなって騒がれ、歌詞の「殿サエ・・」から「殿さ節、とのさ節」、あるいは、結びの囃しことばに「ヤンレー」から「ヤンレ節」とも呼ばれてきたものである。金沢でも「ヤンレ節」がはやり唄の一つだった可能性は、現在、じょんからの口説きとして使われたとされる版本のほとんどが「近八版」(金沢東別院前通りに住んだ「近八郎右衛門」の名で出版されたもの)であり、結の囃しには「ヤンレィ」、表紙には「新版鈴木主水白糸くどきやんれぶし」「佐倉宗吾伝やむれふしくとき文句」等とあることから分かる。しかも新潟の岩船郡に現在も漁師間に伝えられる「じょんから節」があるとも聞いた。九州では今も「平戸ジョンガラ」がある。したがって陸の道によってか、あるいは海、北前船によるジョンガラ伝播の道があったとも考えられ、これはジョンカラの起源・伝播・変化を考えるうえで、今後に残された大きな課題の一つかと思われる。
なお、旧石川郡に残るジョンカラ系のものとしては、山寄りに「しんこう」(古くはシンコ・シンク。「信仰」「神(しん)迎(く)」「甚句(じんく)」の当て字が思い浮かぶ/金沢・富樫、内川地区)、海寄りに「南無とせ」(これは、「南無と頼んで弥(いや)〈弥陀〉の「弥」を掛け)委せ」の約だ約だと伝える。(戸板町・戸水町・無量寺)(北陸大学名誉教授 小林輝冶)
◆ 盆(孟欄(うら)盆)は、祖先の霊を迎えて供養する大切な時節であり、かっては精霊を迎え、慰め、そして送り出すために、宗教的通過儀礼として盆踊りが行われていたが、次第に宗教的色彩が薄れ、江戸時代になると民衆娯楽としての盆踊りが盛んになった。こうした盆踊りで若い男女が結ばれることも多く、今日でいう集団見合いの場、言いかえれば「種族保存的行動歌謡文化」あるとも言える。
石川県加賀地方一円に「じょんから」が伝承され、能登一円に「ちょんがり」が伝承されている。「じょんから」も「ちょんがり」もよく似た呼び名であり、どちらも盆踊り唄の総称と言ってもよい。「じょんから」の五字の意味は、いまだに不明であり、土地によっては「コジッケ」しているところもあるようだ。また、大陸伝播(でんぱ)説も考えられる。しかし、母胎は、新潟県十日町市新保にある禅寺「広大寺」から発祥したといわれる「新保広大寺節」であると思われる。この「新保広大寺」が全国に流行した。その理由は、元禄年間に起きたと言われている広大寺の五世廊文和尚と寺の門前に住む「お市」という若後家との捏造(ねつぞう)された情事。これは、同じ集落の庄屋市左衛門の弟平次郎が家柄をたてにお市を見染め、無理に再婚をせまるがお市は軽くあしらった。これは広大寺の和尚のせいだと逆恨みした。和尚は早速兄である庄屋の市左衛門に平次郎の事を話したところ、弟の無法ぶりを叱り、勘当してしまった。平次郎は更に和尚を恨みお市と和尚のあることないことを唄の文句にして毎年5月頃になると新保あたりを廻ってくる「ごぜ」の「タケ」に金を出して頼み、唄い巡ってもらったという。その詩章は、
○ 新保広大寺がお市のチャンコなめた なめたその口でお経を詠(よ)む
○ 新保広大寺に産屋が建った お市心配するな小僧にする
等の詩章が残っている。また、一説には十日町の豪商最上屋との争いとなり、和尚の乱行を唄に作り、村人たちに唄わせ、追い出しを謀ったという。さらに、この最上屋は、江戸に知り合いが多く、江戸の問屋の口利きで願人坊主を掌中に握り、「新保広大寺節」を江戸中に唄い歩かせ広めたという。この「新保広大寺節」は江戸で大流行し、後に踊りもでき、「広大寺踊り」として、全国に伝播し、各地に定着した。
広大寺系統といわれるものに「八木節」(群馬県)、秋田県の「飴売り唄」、石川県・青森県の「じょんから節」、岐阜県の「小大臣」、最上口説(山形県)、道南口説(北海道)、埼玉県の「満作踊り」「殿さ節」、富山県の「五箇山古代神」「新川古代神」「せり込み蝶六」等が代表的で、中国地方に及んでは(神楽せり唄ともいう)
「ヤンレ節」「一口がんりき」「因幡口説」「こだいじ」「こだいず」「こだいじん」「バンバラ」等数多く、福井県では「糠(ぬか)どっさり節」、隠岐では「隠岐どっさり節」がある。
このように全国に分布するに至っては「願人坊主」「こぜ」「北前船の船乗り」等によるものと思われる。また、地域によっては「じょんから」(広大寺系)で、詞章は、北陸独特の「歓喜嘆」や目蓮尊者地獄巡り」「和讃返し」等が転用されて歌われるようになった。(加賀山 昭)